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翌朝はいよいよ熊野古道に向かう。

 

この古道とは

本来は古より聖地、神域である熊野を目指す
苦難の道のりをさすのだろう。

 

だが、熊野古道も初体験

ということで、旅館前に停まるバスに乗り込んで、

語り部の案内で発心門より、その短かい距離ではあるがいわれの多いコースを、
5時間をかけて歩くことになった。

 

有り難いことに、この日も天気が良くて風もなく

 

全行程が下り中心の道のりは本当に穏やかで

湯の峰温泉の力に加え、
蘇生を本分する古道の働きがけの御陰か

 

元気が全身に漲ってくる。

 

特に古道の終盤に差し掛かったころの

 

伏拝王子や

 

見晴らし台から唐突に現れる

 

熊野川や大斎原の景色を遠くに望むと

この美しさがあるからこそ

これほど多くの人々が
京都や大阪からの長い道のりを歩いたのであろうことを
感じさせてくれた。

 

伊勢はお参り、熊野は詣で。

 

熊野では
古道を歩くことに意味があるようだ。

 

 

 

さて
スサノオノミコトを中心に
その両親と姉(もちろんアマテラスオオミカミ)を祀る本宮は
すでに正月も4日ではあるにもかかわらず、

 

まだまだ多くの参拝客が長い列をなしていた。

 

そこで、今回の目的の一つである牛王護符をいただき、
そうそうに大斉原に降りていった。

 

 

ところで大斉原はおおゆのはらと呼ぶ。
つまり、ここには大量のお湯が溢れていたのだろうか。

 

さて大斉原は熊野川の中州にある。

 

そして長い間
ここに本宮が置かれていたとのこと。

実際に足を運んでこの空間に身を置いてみると、確かにすぐに水没しても不思議ではないこの場所であったが、風雪を受けながらも、2000年を軽く超えて本宮が祀られていたことに

逆に驚嘆する。

自然とは、脅威でもあり恵みをもたらしてくれる存在でもあり、だから、日本の歴史は自然との共生が本分だったと改めて感じることがっできたし、明治以降のこの地の崩壊に、現在日本に起こっている様々な自然による破壊が予見されていたということに思わず落涙。

時代の変化は如何ともしがたいが、最近では、グローバル社会と経済が本分となってしまったこの国の行く末に、

さらに憂いは増すばかりであった。

 

 

なにはともあれ

ここには

仏様に習合する以前の
自然を神とした時代の息吹が
しっかり生きていたのだった。

 


さて、本宮で語り部の方と別れ、タクシーで新宮へ向かう。

 

車窓から熊野川沿いの景色をみるだけではあったが、

熊野川のゆったりとした流れは

まさに雄大

で、ここでも多くの人々の心が癒されたことだろう。

ただ、トンネルをくぐって新宮に入ると、突然にコンクリートで固められた都会の景観に一変した。 このあまりの変化に驚きは収まらなかったが、タクシーはすぐに神倉神社に到着した。

 

神倉神社は
熊野の大神が最初に天下ったといわれる地ということで
その御神体であるゴトビキ岩のある山頂を目指した。

 

神社内に入ると、すぐに大きな鳥居がある。

そしてそこには
ちょっと登るのを躊躇させるほどの
急勾配の石段がずんと迫ってきていた。

よく見るとヒールで上がっている人もいたが、それがかえって

恐ろしく

トレッキング用の靴を履いていてつくづく良かった。

 

ただ、登ってみるとこの距離はそれほどでもなく
すこし汗ばむ気持ちの良い運動であった。

 

それも作用したのか

山上から望む海や町の景色や

 

崖にせり出し今にも落ちそうな神岩が

いっそう美しく

岩という無生物さえも神とした
日本の心が染みたのだった。

 

 

さて、もう日が暮れそうだったので
想像以上に印象的だった神倉神社を後にし

 

熊野三山のひとつである速玉大社に向かった。

 

ここでは平重盛が植えたという
なぎの巨樹が良い。

 

今回の旅行は、京都から始まったが、その際に訪れた

新熊野神社

にも、やはりなぎの木が植えられていたことを思い出す。

 

海の民の信仰から生まれたという速玉大社では、
なぎは凪に通じることで大切にされたのだそうだ。

 

弁慶も

このような風土で生まれたのだろうか。

 

 

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